社会に出て多様な価値観や考え方に出会うということは、とても大切なことだ、ということをしばしば聞きます。ことさらにそういうもの言いが増加したというよりは、単に、そういうことに関心をもつようになって、以前は聞き流していたものが、よく耳に留まっているだけではありましょう。
価値観の多様性、ということでは、この間はEQテストの話がありました。私は、どうもこういう統計学的な手法による斉一的な心理の分析というのはあまり好きではありません。心理学における心理の分析というのは、しかし、そのような手法が主流であって、それを好かないというのは、心理学の学生としては好ましくない傾向ですね。
とまれ、そのEQテストのリーフレットについて、どうも好きでない、信頼できない、というと、
「ものの見方が固まっているよ」
と言われました。また、
「自分を客観視できるチャンスだし、それでマイナス面をよりよくできるチャンスだよ」
ということでした。
しかし、これも一つの価値観にすぎない、というような偏屈な見方もできるわけです。私はへそが曲がっていますので、こうした偏屈な見方をもってして、「EQなんか知らん。せいぜい語っちょれや」で済ませます。
なぜ自分を客観視するということがよいのか、ということについては、ちょっと考えてみてもよいかな、と思うのです。
一番不思議なのは、客観視してどうなるの?ということです。
例えば、私は非常に抑うつの傾向が強く(というのも、うつ病をやっていますし)、物事を悲観的にとらえがちであり、日々生起する問題について、感情を除外した冷静で論理的な考察によって解決を試みる、ということはほぼ不可能です。──これが、私が私に対してできる精一杯の客観視です。
ふむ?と思うのです。
では、このような正しいとされている(ということにしておきましょう、ここでは)客観的な考察とはいかが?ややこしく言ってみれば、「非感情的な論理的考察」あるいは「理性的な論理的考察」とはいかが?
感情に対して理性が対置させられるものだと思います。ここでは、感情は主観の代表であり、理性は客観の代表であるようです。異論はあるでしょうが、おおよそそのように見られているように感じます。感情に対して理性を立てて考えるのは幾分プラトン的である、と、とりあえずはみなせるでしょう。これにも、プラトンの信奉者からは異論はあるでしょうが、ここではおおざっぱにそのようにみなします。
ちょっと話がずれますが、プラトンの考え方というのが、二千年以上も昔の人の考え方というのが、時間と空間を超えて、極東の山間部の街の若造に色々ややこしく考えさせている、というのは、なかなか面白いことです。プラトンなんて名前を聞いて「げっ、面倒臭いこと言い始めるぞ、嫌だなあ」とは思わないでください。「よつばと!」の中で、ジャンボも言ってますよ。「面倒臭いから楽しいんじゃねーか」って。
閑話休題。
さて、心理屋さんは、私に対してこのような助言を下さるでしょう。
「あなたは物事を悲観的にとらえがちで、そのためにその物事に対して冷静な判断が下せないことが考えられます。もっと楽天的になれ、とは言いませんが、あなたの問題に対して、より多面的にとらえられるようにしてみてはいかがでしょうか」
いや、これは単に不勉強な私の予想です。心理屋さんはとても賢い方が多くいらっしゃるので、私が思っているよりも、もっと英知に満ちた助言を下さるかもしれません。どうやったら多面的で客観的に物事をとらえられるか、というようなことについて、心理屋さんはとても多くの手法をもっていらっしゃる(らしい)のです。
では、そのような手法を選ぶのは、理性なのか、感情なのか、ということです。
前者ならば、客観による客観視の選択、ということになり、純粋に客観的でありうるかもしれません。そして、後者による選択ではそれは厳密には不純となります。
おおざっぱに話を進めていきますよ。
厳密性の保証されない不純な後者は切り捨てます。
客観による客観視の選択が「正しい」、とされます。
そして、一般に言う「もっと自分を客観にみようよ」というのが、なんとなく説得力があるのは、「正しい」からでしょう。
では、なぜ「正しい」ほうを選ぶのでしょうか。
理性がそれを選択するから、ということになります。ひと言でいえば「理性的」であるからです。
では、常に「理性的」ということが「正しい」ということと結びつくのでしょうか。もしそうなら、そうした結びつきを保証するものは何ものなのでしょうか。あるいは「理性的」と「正しい」とは同義であり、相互に言い換えることができる同一性をもっているのでしょうか。
と、このようにくだくだしく考えてみると、論理的な穴はとりあえず無視するとして、以上のような流れで考えると、「客観視」とやらが私に対して保証してくれるものというのは、私の理性の命じるところの正しさである、ということになります。
馬鹿を言え、と私は思うのです。
(理性と感情の二元論ではよろしくないとは思うのですが、ここではそのように語ります)。
感情が保障するところの主観による判断は誤りうる。それは事実です。が、以下のような疑問がわいてきます。主観がなぜいけないのか?感情による判断がなぜいけないのか?それが誤りであって、何が悪いのか?理性は誤りを犯しえないのなら、世の中に誤りが毎日無数に引き起こされるのはなぜなのか?完全なる感情排除が正義なら、今の世の中には正義など存在しえないのではないか?・・・?~~~?###?
・・・。
こんなことだから、面倒臭いやつだな、とか、考えすぎだよこいつは、とかと思われるんだろうなあ、と思います。
では、ひと言でまとめてみましょう。
「俺はもっと感情を大事にする。理性は捨てないが、同様に感情も捨てない」
「客観視なんざ大事にするには及ばない。俺の土台は結局主観視だ」
ちょーっと、話を変えますね。EQテストについて、どうにも私が受け入れないので、
「いろんな見方があるうちの一つだよ」
ともいわれました。
いろんな見方、というのが、その人の「主観視」によるものなのか、あるいは「客観視」によるものなのか、ということを問題にすると、いよいよややこしくなってきます。
更にそれを受け止めるのは何ものぞや?
他の見方を知って、それでどうしろと?それで「改善」の行動にでるとして、そこでは完全に「自分の理性に基づく意思の喪失」あるいは「他者の価値観への屈服」というものは含まれていないのか?
このように、何に対しても、懐疑をさしはさむ余地はあるように思われます。
そうして、いつか考えは袋小路に追い込まれるか、すべての判断を保留するしかなくなってしまうでしょう。
沢山の価値観や考え方を知るのはよろしかろうと思うのです。
しかし、それは「他者を認める」というプロセスの一部であると同時に、「でも私はこう思うんだし、そこはどうにも譲れない」という風に、「私」を固めるプロセスであるから、「いい」んだろうなあ、と思うのです。
まあ、第一、他人の価値観の一つ一つに、
「本当だ、こう考えなくてはならない」
「ああ、全くいい価値観だ、採用しよう」
「これは正しいので、考えを改めよう」
などというように考える馬鹿はいないのですが。
そういう他人の価値観の一つに、科学的で統計学的に妥当で客観性が保障された数値、みたいなものがあるだけなのではないでしょうか。
ここで、またもや疑問がわきます。
私は私、他人は他人、そして私と他人は同じ世界、同じ時間にいる、その結びつきの中で、私が私であることを保証するものは、いったい何なのでしょう?
「多様性は人生のスパイスだよ」
という言葉を聞いたことがあります。
スパイスは料理の主役ではあり得ません。素材にある刺激を与える欠かせない名脇役ではあるのですが、それに頼ってばかりいると、いったい料理のおいしさの主役がなんなのか、分からなくなります。
料理のおいしさは、味も香りも見た目も温度も食感も、どれも重要なので、どれか一つが欠けてはおいしさが大いに減退します。
スパイスは、大体が香りと味の刺激にあずかるものです。その多寡によっては料理を台無しにもします。
世界の価値観の多様性といい、そうした世界の住人として、多くのスパイスが求められます。それらのスパイスは、私に対する「客観視」を保証するから、受け入れられているものでしょうか。
ここに目玉焼きがあります。ここでちょいちょいっとコショウがふりかけられます。すると、コショウは白身と黄身の味や、しょうゆやソースの味をより引き立てましょう。たとえば「この黄身はこんなにも濃厚だ」などととりわけ強い味覚を促すこともあるでしょう。
しかし、もっとおいしい目玉焼きを作ろうとて、「もっともっと」とスパイスをふりかけていって、コショウだけでなく、あれも、これも、とスパイスをなんでもふりかけて、出来上がるものはもう目玉焼きとは呼べなくなってしまっているでしょう。それはそれとして「スパイス焼き」とかなんとかといって、それがおいしいというのなら、それでいいでしょう。
しかし、スパイスは、強力な刺激にすぎないです。そうした刺激への偏重は、私には好もしくありません。
多様性もよろしかろうし、客観視もよろしかろうと思うのですが、全く「よし」とは言えません。
さて、以上のように考えてきたものの、多様性とは私にとっていかなるものだろう?
こんなかんじで、馬鹿な学生は悩んでいたりします。